昔、私が幼稚園に通っていた頃の話です。
ある日突然、なんと私の組の先生は私たち園児に対し、宮沢賢治の「アメニモマケズ」を暗唱させはじめたのです。
こう書くと虐待じみて聞こえますが、いたって平和的に、「さあ、みなさん、歌を歌いますよ」、とでもいう感じのノリで毎日5行くらいづつみんなで暗唱していくのです。
どうやら先生は来るべき授業参観日に私たちの父兄の前で披露させるつもりらしく、「授業参観日にはお父さん、お母さんをびっくりさせましょうね。お家に帰ってもこの詩を幼稚園で暗唱しているということは両親には黙ってましょうね。」と園児に口止めさせる念の入れようです。
これは幼稚園児の私としても、みんなで何か大きないたずらを画策しているようで楽しかった事を覚えています。
幼稚園児にとっては結構長い詩でしたが、毎日毎日みんなで暗唱しているうちに完璧に覚えてしまいました。
そして授業参観日当日、園児の親たちが後ろにずらりと居並ぶ前で先生が授業を始めます。なんの変哲もない普通の授業がしばらく続いた後、先生は宮沢賢治の詩「アメニモマケズ」ついての概要を説明し始めます。そして、先生の合図とともに、園児は一斉に「アメニモマケズ」を暗唱し始めます。
何も見ないで延々と暗唱する園児たち。途中から、後ろの親たちがざわつきはじめると何か私もいたずらが成功したような感じで非常に嬉しく、また、これだけのことができる自分たちが誇らしかったのを覚えています。
園児の暗唱が終わり、まだざわついている父兄に対し先生は一言
先生「子供たちは何も見ていませんよ」
ある母親A「本当にうちの子かしら?」
(一同笑い)
そしてその後、先生は「みなさんのお子さんはこれだけの能力があるのです。自信を持って更に伸ばしてあげて下さい」というような事を言っていました。
あの幼稚園の先生は今から思うと、非常に前向きでちょっぴりいたずら好きなとても素敵な先生だったのだと思います。授業参観を楽しくしようと、また、親達と園児たちに自信を持ってもらおうと、創意工夫をしていたのですね。私自身、ややもすると惰性で日々の生活をこなしていってしまうこの歳になってあの先生の素晴らしさがよくわかるようになりました。私はあの先生に、「自分はこれだけのものが暗記できるんだ」「自分はやればできるんだ」という自信をもらいました。
ただ、当時は子供心にアメニモマケズの結びの「みんなにでくのぼうと呼ばれ、褒められもせず、苦にもされず、そういうものに私はなりたい」という賢治の気持ちがわかりませんでした。「人には褒められた方がいいじゃん!」と内心無邪気に思っていました。
しかし、この賢治の気持もようやく最近わかるようになってきました。
人間、生きていくという事だけで大変なことですよね。とりあえず毎日を生きるので精いっぱいの人生を、あれだけ前向きに生きていたあの先生はやっぱり素敵な指導者でした。